美しくそれぞれに個性豊かな、谷崎作品のヒロインたち。そしてなぜか、彼女たちと男たちとは、「夫婦」のかたちをとって現れることが多いのです。 「痴人の愛」のナオミと譲治の、お伽噺のような家を舞台にした二人だけの「シンプルライフ」。「蓼喰う虫」の「仮面夫婦」美佐子と要は、どこにでもいそうなふつうの妻と夫にみえます。 「春琴抄」のお琴と佐助の夫婦は、生涯「主従」の間柄を貫きました。「猫と庄造と二人のおんな」の庄造にとって、二人の妻との関係は、手ごたえほどのものもない幻のようです…。 いかにも、彼らは夫婦なのです。が、そんな二人の関係は、婚姻制度に裏づけられ良識の型にはめられた世間並みの夫婦のかたちにはおさまりきらない、風変りなものにみえます。 夫婦の間に血縁のつながりが絡むのを恐れて子を生むことを拒み、「他人行儀」で「多少の間隙」のある「妻と夫であって、そうでない」という、 いわば「仮象の夫婦」を理想としていた谷崎。そんな谷崎じしんの夫婦観や結婚観も、その作品の夫婦の有り様と関わっているのでしょうか。 谷崎が描く「“夫婦”のカタチ」のウラには、どんな事情や背景があるのか。谷崎や、その周辺の現実の夫婦関係をも絡めながら、読み解いていきます。
夏の特設展では、谷崎潤一郎が生前愛用していた 数々の「小物」たちを展示します。 身に着け、また、直に肌を接しながら、人が使いこんできたモノたちには、おのずと、その体温が伝わっていくものでしょう。趣味嗜好や価値観が色濃く映し出され、身体的な特徴さえ物語ってくれるはずです。 「商売道具」として、数々の傑作を生みだした文房具はもとより、眼鏡やカメラ、帽子・ネクタイ、作品の検印にも使われたこだわりの印鑑、希代の食いしん坊だった文豪の食欲を最晩年までささえた「入れ歯」に至るまで……。谷崎遺愛の多種多様な小物たちから、在りし日の文豪の愛着、その<手触り・肌ざわり・息づかい>を感じとってみませんか?
ほんの一時の避難のつもりで関西へ逃げて来たことが、私を今日あらしめた第一歩であった(「東京をおもう」)。 谷崎潤一郎は、明治19(1886)年東京に生まれましたが、大正12(1923)年の関東大震災を逃れ、阪神間へ移住します。 震災の頃、谷崎の眼に映っていた東京は、乱脈な近代化の進行と立ち遅れた貧相な生活文化との、醜悪な習合でした。 そんな東京を「みんな焼けちまえ」と呪い、震災の廃墟のむこうに「西洋化の徹底」としての「理想の近代」の復興を夢見ていたモダニスト谷崎。 一方、阪神間移住後の谷崎は、震災の後も相変わらず薄っぺらな東京の有様への嫌悪も背景に、「西洋かぶれ」のモダニズムから、 関西の豊かな風土に根づく日本の伝統的な文化と美意識へと、その作品の基調を移していきました。 阪神間への移住を転機とした作家谷崎の歩みは、やがて名作「細雪」にたどり着きます。それは、伝統に根ざした日本のモダン、 みすぼらしい東京の「醜い近代」にかわる、関西の豊かな生活文化を土壌とした理想のモダンの文学的な結実であり、文豪谷崎新生の記念碑でした。 故郷東京への屈折した思いを背負いながら、関西の風土と文化の影響の下で、大文豪へと開花していった谷崎潤一郎。 関東大震災から100年の今年、阪神間への旅立ちが第一歩となった、作家谷崎の文豪としての新たな誕生の様相を跡づけ、 リニューアルオープンを迎える芦屋市谷崎潤一郎記念館の「新生」をも記念します。
展示ケースの中のモノたちには、それぞれに物語があります。ふつう、そんなモノたちの発するさまざまな言葉(情報)は、選り分けられ寄せ集められ、 たとえば文豪谷崎を主役に立てた展示という「大きな物語」の一部として仕立て上げられていくのです。 でも、たまには、そんな展示資料の方こそを主人公にしてみてはどうでしょうか。 戦禍をくぐり抜けての「細雪」執筆刊行の事情と谷崎の人となりをよく表した肖像画の横顔からは、文豪の「きかん気」らしさが滲み出します。 「細雪」ゆかりの琴も戦火を免れ、この名作のエッセンスを戦後に伝えてくれています。文豪の堂々たる人生の大団円を象徴する祝い皿は、 稀代の「食いしん坊」谷崎らしいしつらえです。死の直前まで新作の構想を練っていた谷崎臨終の文机は、その伝来の逸話とともに重厚な構えが印象的。 猫好きの谷崎が、とりわけ愛し剥製にまでした一匹。俵屋宗達の源氏絵は、激動の歴史の中での数奇な生い立ちを背負う逸品です。 谷崎邸の調度として、その日々の生活を彩った絵画たちは、文豪お気に入りの名品揃い。傑作完成の記念碑ともいえるヒロインモデルの肖像は、 その制作過程や技法も興味深い佳作。代筆原稿とその背景にも、さまざまな事情があって、一筋縄では行き届かないようです。 大きな筋立てを構えず、モノたちの言葉そのものに耳を傾け、そのひとつひとつの物語をじっくりと楽しみます。
冬の特設展の主役は、七枚の「細雪」自筆原稿です。しかも、日の目を見ることなく、書き棄てられた反古(ほご)原稿。とびきり貴重なものなのです。 岡山県勝山町の、谷崎の疎開先宅に遺されていました。書かれたのは、戦後。一九四五(昭和二十)年末より翌年にかけての滞在中のことでした。 内容は、下巻の十章~十一章にあたります。しかし、話の流れは大きく異なり、「こいさん」妙子と以前の恋人・奥畑啓三郎(「啓坊」)との結婚が進むように展開。 彼女の未来は、穏やかなものとなりそうです。今見る作品終末の、妙子を覆う暗澹(あんたん)とした運命は、入り込む余地がありません。 戦争を掻い潜るように執筆された「細雪」。その中でも、敗戦をはさんで新しい時代へと書き継がれた下巻。世の転変の下で谷崎が棄てた七枚の原稿は、何を物語ってくれるのでしょうか。
女性とその美に終生関心を寄せつづけ、描きつづけた谷崎潤一郎。80年にもおよぶその生涯の道のりを、様々な女性たちが行き交っていきました。 想いを抱きつづけた美しい母、三人の妻たち、お気に入りだった女優・・・。名作のモデルとなった女性も多々あります。 いつも多くの女性とともにあった谷崎。「フェミニスト(女性崇拝者)」であることを自認し自負してもいた谷崎。 数々の女性たちによって縁どられた文豪の肖像はいかにも花やかにみえますが、その表情は思いのほかに複雑なのです。 女というものは神であるか玩具であるかのいずれかである。「蓼喰う虫」の主人公が吐露したこの心境は、谷崎じしんの胸中でもあったのでしょう。 この謎めいた言葉が物語る女性との関係性は、はたしてどのようなものだったのでしょうか。 女たちのからまりあう眼差しに照らされて、ようやく人として作家としての谷崎の輪郭が浮かびあがってきます。 「女性なるもの」と文豪との、また、その作品世界とのかかわりを解き明かします。
谷崎潤一郎は、美しいものをこよなく愛しました。文豪ゆかりの絵画・美術品には、その美意識や関連する作品の味わいが滲み出ています。 傑作「細雪」の伝統とモダンの調和の美は、女たちのキモノ選びを描く小磯良平の口絵に見事に表されています。洋画家・和田三造の描く暗闇に浮かぶお琴と佐助は、日本画家による春琴抄より、谷崎が好んだものでした。 谷崎一流の「陰翳の美」も、モダンの枠組みの中でこそのものだったのでしょうか。 北野恒富「雪の朝」は、谷崎好みの王朝趣味溢れる美人画の逸品。軸の表装には、松子夫人のキモノが使われています。 文豪には、画中の美女と最愛の女性とがオーバーラップして見えていたのかもしれません。王朝趣味といえば、俵屋宗達「源氏物語屏風切」は一つの極み。 もと源氏五十四帖の各場面を描き込めた屏風から切りとられたという数奇な伝来を持つ大和絵の名品で、源氏物語口語訳に没頭していた谷崎が、 執筆の慰みにしていたといいます。 棟方志功は、数多くの谷崎作品の装丁・挿絵に携わりました。棟方独特の「板画」とともに貴重な肉筆画の数々も味わい深く、 文豪との親交が触媒となった鬼才ならではの感性のきらめきが眩しく迫ります。 今ここに満ちているのは、谷崎の美か、巨匠たちの美か。いずれにせよ、それはきっと、私たちを美しい夢へといざなってくれることでしょう。
昨今、近代作家をイケメン化した漫画やゲームが若者を中心に人気を集めていることから、近代文学の作家及び作品に注目が集まり、〈文豪〉ブームが生まれています。 本展は、その現象に注目し、ブームの源流をたどります。 明治期には、物故していた尾崎紅葉や樋口一葉などが、雑誌で文豪と位置付けられ、 大正期には、文芸雑誌『文章倶楽部』(大正5年創刊)が戦略的に作家の写真を多用し、アイドル的な存在となっていました。 作品を「読む」だけでなく、文学を生み出す作家本人を写真や絵でビジュアル化し、「見る」楽しみを提供しています。 その舞台となる『文章倶楽部』は、新潮社が全国の青少年を対象に、文章力の修養を目指して創刊した文芸・投書雑誌で、 二、三の短編小説の他に、小説の作法や作家による文章談など、文章に関する記事を掲載しました。 さらに、作家の私生活に関するアンケートや文壇立志伝、文豪伝などを多く取り入れ、文章を自在に操る文豪を身近な憧れの的として演出しました。 作家のプライベートな写真も合わさり、大正文壇の雰囲気を鮮明に伝える文壇案内記となっています。 また、作家たちの似顔絵をクイズにした回答や、作品のイラストなどを読者に懸賞募集し、ビジュアルで誌面を盛り立てました。 大正の文壇に乱れ咲く、百花繚乱の作家たち――。谷崎や芥川らがどのようにイメージ化されていたか、誌面から浮かび上がらせます。
文豪谷崎潤一郎の代表作「細雪」。そこで描かれるのは、昭和10年代の阪神間に生きる市民の、教養と財産と伝統そしてとりわけ女たちの艶やかな存在感に裏打ちされた、 豊かで美しくおだやかな日常です。それは、当時の谷崎一家の生活の記録でもあり、文豪がこよなく愛した暮らしであったに違いありません。 作品では、春夏秋冬の不変の自然の循環に織り込まれつつ、家族の日々の時間が流れてゆきます。変わらぬ春のめぐりとともに訪れる花見の春はしかし、 一家にとっては年ごとに違う春なのです。日常の時間の流れは、その生活を徐々に変えてゆくのでした。 それは、家族として親しんだ懐かしい生活世界がうしなわれてゆく過程でもあったのです。 「細雪」の頃はまた、戦争の暗く速い流れが、世の中を覆っていった時代でもありました。その時流にあらがうでもなくのみ込まれるでもなく、 一家の豊かでおだやかな日常は、みずからの喪失のリズムをゆるやかに刻んでゆくようにみえます。 この上もなく細やかに描き込まれてゆく、なにげなくも美しく愛おしい日々。文豪が、その至高の筆致で惜しみつつ書きとどめた、うしなわれゆきつつある生活世界へご案内しましょう。
「手紙」には、多くの情報が詰め込まれています。その文面はもとより、筆跡や文体、ハガキか封書かといった書簡の形式、便箋か巻紙かという用紙の使い分け、 ペンか筆かの筆記用具の別もあります。そうした多彩な手がかりからは、書き手の人となりや折々の心象風景、周囲の人々との関係性等々、 多様な事がらがみえてくることでしょう。 谷崎からの手紙もまた、文豪のさまざまな顔を浮かびあがらせてくれます。 時を追うごとに刻み込まれた、作家としてまた人間としての年輪。スキャンダルの周辺で交錯する人間模様。戦争という歴史の奔流の中で遺された、 いかにも谷崎らしいエピソード。一方で、世相を読み時流に合わせることにたけた商才豊かでしたたかな、作家らしからぬ意外な顔もあります。 書簡の中の文豪谷崎は、じつに豊かな表情を私たちにみせてくれるに違いありません。
谷崎潤一郎は、美しいものをこよなく愛しました。文豪ゆかりの絵画・美術品には、その美意識や関連する作品の味わいが滲み出ています。 傑作「細雪」の伝統とモダンの調和の美は、女たちのキモノ選びを描く小磯良平の佳作に見事に表されています。洋画家・和田三造の描く暗闇に浮かぶお琴と佐助は、日本画家による春琴抄より、谷崎が好んだものでした。 谷崎一流の「陰翳の美」も、モダンの枠組みの中でこそのものだったのでしょうか。 北野恒富「雪の朝」は、谷崎好みの王朝趣味溢れる美人画の逸品。軸の表装には、松子夫人のキモノが使われています。 文豪には、画中の美女と最愛の女性とがオーバーラップして見えていたのかもしれません。王朝趣味といえば、俵屋宗達「源氏物語屏風切」は一つの極み。 もと源氏五十四帖の各場面を描き込めた屏風から切りとられたという数奇な伝来を持つ大和絵の名品で、源氏物語口語訳に没頭していた谷崎が、 執筆の慰みにしていたといいます。あわせて、日本画の錚々たる大家たちが谷崎源氏に寄せた挿絵の数々も、絵巻さながらの壮観さで見ごたえ十分。 棟方志功は、数多くの谷崎作品の装丁・挿絵に携わりました。棟方独特の「板画」とともに貴重な肉筆画の数々も味わい深く、 文豪との親交が触媒となった鬼才ならではの感性のきらめきが眩しく迫ります。 今ここに満ちているのは、谷崎の美か、巨匠たちの美か。いずれにせよ、それはきっと、私たちを美しい夢へといざなってくれることでしょう。
文豪・谷崎潤一郎は、1910年の文壇デビュー以降、1965年に没するまで、「刺青」「痴人の愛」「春琴抄」「細雪」など数々の名作を発表し、不動の地位を確立しました。 そうした谷崎の創作活動に刺激を与えたのが、文豪たちとの交流でした。明治末の文壇出発期から、泉鏡花の作風や存在に影響を受け、 さらに永井荷風に「刺青」などの作品を激賞され、華々しい文壇デビューを飾ることとなりました。 同世代の作家、白樺派の志賀直哉、武者小路実篤とは晩年まで交友関係を築き、特に「小説の神様」と称された志賀の文体を、 『文章読本』で称えています。 大正期には、同じ東京帝大出身で6歳下の、芥川龍之介の『羅生門』出版記念会に招かれたのを機に、芥川、佐藤春夫、久米正雄らとの親交を深めます。 昭和初年に至ると、芥川とは「小説の筋」を巡って論争しますが、その最中に芥川は自死、谷崎は追悼文で早すぎる死を悼みました。 また、佐藤とは妻 千代を巡って対立し、のちに千代と離婚、千代と佐藤が結婚すると、一大スキャンダルとして世間に衝撃を与えるのでした。 このように、さまざまな文豪たちと交流しつつ、多くの作品を世に送り出した谷崎。自筆の書簡をはじめ、追悼文、書籍など、交友関係を示す資料も合わせて紹介します。 自死する年に撮影された芥川や、当時の文豪たちを映した映像展示「現代日本文学巡礼」(郡山市こおりやま文学の森資料館所蔵)も必見です。 数々の名作を生み出した文豪たちの交流を、お楽しみ下さい。
文豪・谷崎潤一郎の生涯は八十年に及び、作家としてのキャリアも半世紀をこえます。 その間、時々の世のタブーと危うい摩擦を引き起こし、時に発禁の憂き目に遭いながらも、歴史の荒波と社会の転変を見事に掻いくぐり、物書きとして生き延びてきました。 文壇デビューの頃の、若き「異端児」谷崎の過激な筆致は、作家としての挑発的ともいえる試行錯誤でしたが、猥雑と不道徳とをよしとしない当局の見過ごすところではありませんでした。 やがて、そんな作家谷崎の軌道は、大正期のデモクラシーとモダニズムの社会風潮の高まりと共鳴し、さらには煽動してもいきます。 「痴人の愛」の引き起こした社会的反響とその新聞連載中断の事情には、そうした大正期の文化的潮流とともに、やがて来る「戦争の時代」の予兆も刻み込まれていたのです。 「潤一郎訳源氏物語」と「細雪」は、戦争の暗雲の下で執筆されています。これらは、まさに「戦時下のタブー」に触れるものでした。 「源氏物語」では、巧みに当局の目をすり抜けた谷崎でしたが、「細雪」は「自粛」というかたちでの発禁を余儀なくされます。 そして敗戦後十年、「老人の性」に脚光をあてた「鍵」は、「もはや戦後ではない」といいながら、性表現のタブーにいまだ囚われていた昭和30年代初頭の日本に大きな衝撃をあたえたのでした。 表現者ならば誰しもが直面するタブーとのジレンマ―「発禁の誘惑」を通じて、谷崎の文学的世界が成熟していく事情を浮き彫りにしていきます。
「初版本」―その言葉の響きには、独特の緊張感が漂います。それは、名作た ちにとっての、ただ一度きりの「デビュー」であればこそのものなのでしょう。 「本」というかたちになって世に出るまでが自分の作品である、とのこだわりを持っていた谷崎の場合、自作の晴れ舞台への思い入れはとりわけて強い。 凝った素材を使っての贅沢な装丁による、念入りなドレスアップとメイクアップが施された初版本の数々。著名な画家による装丁・挿画が効果的な、 「共作」といえる趣の本もあります。 そんな、それじたいが贅沢な美術・工芸作品でもある初版本たちは、やはりそれなりの値にはなります。 また、様々なモノの中で、商品としての「本」の価値がどれくらいのところにくるのかも、時代によって変わってくる。 さらに、<「古書」としての初版本>という違う見方からはまた、目を見張るような高値がつくこともままあって、驚かされます。 特設展では、そうした「売り買いされる商品」としての書籍という視点をもからめながら、谷崎作品初版本の世界を楽しんでいただきます。
「大谷崎」とよばれた文豪谷崎潤一郎。そんな彼も、スキャンダルの主人公として、何度か世間を騒がせています。 また表立たずとも、醜聞めいた人間関係の中に少なからず身をおきました。 が、そこは文豪、複雑に交錯する人間関係のテンションを創作へのインスピレーションへと変換させていったのです。 最初の妻千代とその妹せい子、そして親友の詩人佐藤春夫をも巻き込んでの四角関係は、「痴人の愛」の背景となりました。 「妻譲渡事件」として一大スキャンダルとなった、谷崎と千代と佐藤との間でのいきさつはまた、ほとんど同時進行的に、 画期的傑作「蓼喰う虫」へ写しとられていきます。二人目の妻丁未子と最後の妻松子との間での板挟みの軋轢は、 「猫と庄造と二人のおんな」の自虐的な諧謔の軽みへと昇華されました。妻松子とその妹重子との間でのデンジャラスな関係性も、 センセーショナルな問題作「鍵」の創作へのエキスとなったことでしょう。そして、「息子の嫁」と老人との危うい関係を描いた畢生の傑作 「瘋癲老人日記」は、モデルとなった女性との「遊び」の戯画化に他ならなかったのです。 まともに受けとめたならば、耐えられそうにもない愛憎の渦を、 谷崎はみずから巻き起こしときに操りつつ書きとめていったかのようにもみえます。 谷崎にとっての現実とは、作品のために企てられた虚構だったのでしょうか? 特別展では、こうした谷崎をめぐる生の人間関係に隠された名作誕生の秘密を、谷崎肉筆の書簡や遺愛品・初版本等、 数々の貴重な資料によって浮き彫りにしていきます。 協力:新宮市立佐藤春夫記念館 中央公論新社
文豪谷崎も、「詩歌」の分野はあまり得意ではなかったようです。が、意外にも、「和歌」については、生涯にわたって多くの作を遺しています。 「巧拙よりも即吟即興」、「小便をたれるやうに歌をよんだらいい」とまで言い放つその歌風は、たしかに素朴ではあります。が、だからこそ、 じかに話しかけてくるようにも感じられる歌いぶりは独特で味わい深く、短冊・色紙・扇子と、様々に詠まれたその墨跡からは、生の声が立ち昇ってくるようです。 「歌人」潤一郎の、そんな肉声の歌々を、存分にお愉しみください。
「細雪」の文豪――。「谷崎潤一郎」と聞けば、誰しもが思い浮べるイメージでしょう。谷崎といえば、まずはこの大傑作なのです。 しかし一方、谷崎は、「痴人の愛」の作家でもありました。教養と財産に裏づけられた平和で豊かで美しい「細雪」の市民的日常と、 その倒錯的な「マゾヒズム」の逸脱性とは、にわかには相容れ難いようでもあります。 「マザーコンプレックス」もまた、谷崎の一面。故郷を捨てた谷崎にとって、美しかった母の面影は、 生まれ育った古き良き東京の光景とも時として重なり合いながら、屈折した望郷の想いを呼び覚ましました。 「猫好き」でも有名な谷崎は、とりわけ「雌猫」を寵愛しました。女性の分身ででもあるかのような猫を死後も剥製にして可愛がるという、 一種異様なその「愛のかたち」は、マゾヒズムの倒錯とどこかで共鳴するのかしないのか? 「欲望」への飽くなき執着は、人間谷崎・作家谷崎を貫く根幹をなすモティーフでした。だとすれば、そんな「欲望の作家」としての顔は、 「谷崎潤一郎」の時として矛盾しそうでもある様々な顔を結び合わせることができるのでしょうか? 万華鏡の中に乱れ咲く虚構の花々にも似て、様々な顔の錯綜する多面体の文豪「谷崎潤一郎」。果たして、その全貌や如何?
文豪・谷崎潤一郎は、若い頃、映画の脚本を執筆していました。そんなことも あってか、谷崎は映画界とも繋がりが深く、その作品も数多く映画化されています。 さらには、谷崎文学の真骨頂ともいわれる「話の筋のおもしろさ」「物語性の豊かさ」も手伝ってでしょうか、 演劇・歌舞伎等をはじめ、舞台芸術・芸能への作品の翻案も多くあります。 そんな「エンターテイメント」の世界と谷崎作品そして谷崎自身との関わりに焦点をあてていきます。
あの谷崎が「時代小説」を書いていたのか―。意外に感じる方も多いことでしょう。 しかしじつは、このジャンルこそ、小説家谷崎にとっての真骨頂といえるのではないでしょうか。 デビュー作「刺青」からして、江戸時代を舞台とした物語でした。自然主義リアリズム全盛の文壇に抗して現れた、 <物語り>の作家としてのその想像力の翼は、耽美派の作家として追い求めたその理想の美は、現実の鎖を断ち切った 過ぎ去った世界のなかでこそ、十二分に解き放たれたのです。 その創作の手ごたえは、関西移住後の伝統美への回帰をもきっかけに、自覚されたものとなったに違いありません。 大衆文学の勃興を前にした谷崎の挑戦でもあった「乱菊物語」は、波乱万丈、手に汗握る戦国冒険活劇エンターテイメント、 フィクション性豊かな「空想時代小説」です。かたや、これぞ谷崎、という倒錯性にあふれる「武州公秘話」。さらに、 お市の方の肉体に理想の女性美を花開かせた「盲目物語」、「源氏物語」の口語訳は失われた王朝の美の極みを現代によみがえらせ、 美しかった母への憧憬は、谷崎一流の<母恋い>物語「少将滋幹の母」に投影されていきます。 時代小説の中には、文豪谷崎のすべてのエッセンスが詰め込まれているのです。 日本画の大家北野恒富による躍動感溢れる「乱菊物語」挿絵原画、谷崎を王朝の美の世界に誘った俵屋宗達の倭絵の傑作「源氏物語」屏風切、 松子夫人のために谷崎がみずからデザインした十二単風の着物、「少将滋幹の母」自筆原稿等々、多種多様な展示品は、 文豪が夢見た時代絵巻の世界を、目にも鮮やかに繰り広げてくれることでしょう。
日本の近代文学界を代表する「文豪」、谷崎潤一郎。が、意外にも、「文壇」の面々とは疎遠な人であったようです。 芥川龍之介は、その数少ない例外でした。 人間の好き嫌いが激しく気難しい谷崎でしたが、芥川との間には親交がありました。 「小説の筋」をめぐって、珍しく「文学論争」らしきものを闘わした唯一の相手が芥川でしたし、 谷崎にとっての「運命の女性」松子との出会いも芥川がきっかけでした。 ともに大正期を代表する作家であった二人。が、昭和に入るやすぐに自死というかたちで若くして人生を終えた芥川に対し、 谷崎は七十九歳の天寿を生き抜き、死の直前まで半世紀を超えて第一線で書き続けました。 その点で対照的ともいえる二人の運命にとって、そのたまさかの交わりは何がしかの意味を持ったのでしょうか。 特設展では、公私にわたる二人の交友を、貴重な初版本や写真等を通して浮き彫りにしていきます。 とくに、自死の年に撮影された、芥川の日常を切り取った映像フィルムは必見です。
ピアノの演奏会、お見合い、お花見…。着物を選び、電車に乗って神戸や大阪、各地へ赴く姉妹たち。 その華やかな風貌は、車内でひと際目を惹く存在として描かれています。 「細雪」は、三度目の妻松子とその姉妹たちとの生活を如実に書き記した作品で、谷崎文学を代表する名作です。 理想の妻を得た谷崎は、妻と姉妹をモデルに、美しい「蒔岡四姉妹」を造型し、三女雪子と四女妙子の見合いや恋愛、 そして情趣溢れる四季折々の行事を描き、不朽の名作を構築しました。 作品の背景となる昭和11年から16年にかけて、谷崎は神戸の住吉川西岸に居住していましたが、あえて作品舞台を芦屋に設定し、 中産階級の優雅でモダンな生活を描きました。松子と最初に住んだ縁の地・芦屋では、谷崎は最初の「源氏物語」現代語訳や、 「猫と庄造と二人のおんな」などを執筆。優雅な平安王朝の世界と、芦屋の下町に住む庄造と猫、先妻・後妻の争いを描き、 新境地を開くのでした。 また、当時の芦屋は、明治期から大正にかけて鉄道が敷設され、昭和2年には阪神国道(現国道2号線)が開通されるなど、 交通の便が整備され、別荘地、住宅地として発展していきました。画家や写真家が住むようになり、芸術的な香りただよう街でした。 谷崎と芦屋のつながり、そして芦屋を中心とした阪神間を描いた「細雪」の世界。自筆原稿や松子夫人の着物、 小磯良平による挿絵原画など、当時の資料や遺愛品を通してお見せします。 ※展示品は時期によって入れ替えがあります。
昭和に入り、谷崎が作家としての黄金期を迎えつつあった頃、大衆社会がはっきりとその姿を現すようになります。 そうした時代の流れを背景に、文学も社会の裾野広く受け入れられていきました。いきおい、 多くの読者の関心は作品じたいにとどまらず、作家そのもの、わけてもその私生活へと向かっていったのです。 今度の結婚のお相手は?どんな人が好みなの?趣味は?ペットは?・・・。今や「有名人」となった作家たちは、 人々の好奇心の渦にとりまかれていったのでした。「グラビア」の中で彼らがみせるさまざまな表情は、 そんな読者の熱い視線を理屈抜きで満足させてくれるのです。 さて、谷崎の場合、レンズがとらえたその横顔やいかに?
いつも美に満ち溢れていた谷崎潤一郎の作品世界。それは、「和」の伝統美を背景と しながら生み出されてきたものでした。 春の特別展では、こうした美意識を見事に映し出す文豪お気に入りの美術品を、一堂 におみせします。目を奪う絵画・工芸、とりわけ、谷崎ゆかりの女性たちが愛した数々の着物の彩りの、 今の世ではもはや夢のまた夢かとも思わせるほどの豪奢なしつらえは、きっとため息を誘うことでしょう (※着付協力は日本和装学園神戸校・安藤綾子総合学園長)。 展示では、主に四つの作品を通して、「和」の美匂い立つ谷崎的美学の全貌を紐解いていきます。 □「春琴抄」~伝統の美は闇に目覚める~ 谷崎が生れた明治の頃の日本橋。そこには、「光輝く大都市東京」の姿はまだまだ遠く、 妖しくも美しい江戸の闇の世界が息づいていました。移住先の関西の文化と風土にも触発され、 モダンボーイだった谷崎の中で、幼い頃に親しんだその闇の伝統美の水脈が浮上してきます。 大阪の老舗薬種問屋を舞台にし、盲目の美女が主人公となった「春琴抄」は、そんな闇の中に目覚めた美の世界の申し子なのです。 □「源氏物語」と「細雪」~二つの古典美~ 平安貴族社会の古典美の粋を現代によみがえらせた「谷崎源氏」。その伝統美の世界 を基調としつつ培われた、近代日本の市民の美意識・美的ライフスタイルのエッセン スともいえる「細雪」。二つの作品世界は、女性美を核心としながら、千年の時を越え て響きあい融けあっていきます。 □「瘋癲老人日記」~棟方板画のクールジャパン~ 洋画からスタートしつつ日本の版画の伝統に行き着いた「棟方板画」のクールなジャポニズム。 それは、谷崎の美意識がたどってきた道のりと一脈通じるものです。 「瘋癲老人日記」の乾いた美とエロティシズムの世界が、棟方の挿画によって見事に可視化されていきます。 皆さま、「和らんまん」の谷崎文学の世界を、とくとご堪能あれ!
谷崎潤一郎は、男を翻弄し挑発する女性を描き続けました。欲望に忠実で自己主張を恐れない彼女たちは、当時の社会通念からすれば、 まさに「悪女」にほかなりません。文壇ブレークを果たした「刺青」から最晩年にいたるまで、半世紀をこえるその「悪女の系譜」が放つ 妖しく美しい輝きは、刺激的でスキャンダラスです。 悪女は、谷崎の女性への願望であり、女性との理想の愛を投影したものでした。そんな谷崎の描く悪女たちの眼差しは、私たちの心 の奥底に潜む何ものかを揺り動かしよび覚ます魔力に満ちています。谷崎の「悪女」は、私たちすべてを魅了する「危険な誘惑」なのです。 「ナオミ」(「痴人の愛」)、「お琴」(「春琴抄」)、「妙子」(「細雪」)、「颯子」(「瘋癲老人日記」)・・・。モデルと なった女性たちの写真や、彼女らにひざまずき仕える谷崎の「愛の手紙」、棟方志功の挿絵原画に描かれたヒロイン像など、多彩な展示 品によって、谷崎作品を彩る悪女たちの面影を浮かび上がらせていきます。咲き乱れる「悪の華」たち、甘く魅惑的なその毒に、溺れ、 酔い痴れていただきましょう。
「春琴――ほんたうの名は、鵙屋琴」 主人公の名前から物語が始まる「春琴抄」は、美しくも驕慢な盲目の音曲師・春琴と弟子の佐助の特異な恋愛を描き出した、谷崎渾身の名作です。 発表時には川端康成や正宗白鳥らに絶賛され、今もなお高い人気を誇っています。 この作品にはモデルとなった二つの背景がありました。一つ目は、当時、恋愛関係にあった根津松子夫人との世を忍ぶ恋愛。 谷崎は松子夫人と主従関係を結ぶ「誓約書」を自らしたため、自身を佐助になぞらえて一心に奉仕したのでした。そして、二つ目は、師を仰いで邁進した地唄の世界。 昭和二年から大阪の音曲界の権威、菊原琴治検校に師事し、日々三味線の稽古に励んでいました。天才と言われる検校からインスピレーションを得て、 類まれな才能を持つ音曲師春琴を造型しました。このように、実生活を作品に限りなく近づけて、春琴と佐助の特殊な師弟関係を描き、物語後半では春琴が大火傷を負う受難、 そして佐助自ら失明する壮絶なクライマックスを描き、究極の愛の形を示したのです。 谷崎は「ほんたうらしく」書くために、随所に工夫を凝らしました。実際は存在しない、春琴の墓、春琴の伝記『鵙屋春琴伝』を、 作品冒頭に示してあたかも春琴が実在したかのように装うのです。そして、春琴に火傷を負わせた犯人像をいくつか挙げながら、謎のまま作品世界を閉じ、 〈虚〉と〈実〉をない交ぜにして、読者を物語の迷宮へと誘うのでした。 本展では、「春琴抄」の豊穣な作品世界を、実際のモデルや大阪の旧家で使用された資料などを通して蘇らせます。松子や検校の娘で地唄の人間国宝菊原初子が愛用した着物類、 琴や三味線など。そして、谷崎が松子に宛てたラブレターや関西初公開となる創作ノート「松の木影」は必見です。また、谷崎が絶賛した和田三造「春琴抄」画や、 佐藤春夫作詞「春琴抄」が添えられた樋口富麻呂画軸など、物語にまつわる美術作品もお見逃しなく!谷崎文学の最高傑作「春琴抄」の世界、ご堪能下さい。
もちろん、「本」は「読み物」です。でも、その前に、単なるひとつの「物体」でもあるのです。 そうした目線であらためて本を眺めてみると、その風体はじつは意外に奇妙で、世の中の様々な「モノ」の中でも、 ひときわ私たちの感性をざわめかせます。 そう、「本」とは「ヘン」なモノなのです。 そして谷崎こそは、<「モノ」としての本>、すなわち装丁にこだわり抜いた文豪でした。 いわく、装丁は自分の文学の一部であり作品世界はそこに完結する・・・。そんな熱い思い入れも拍車をかけ、漆塗りや生木の装丁、 果ては表紙に木の葉を摺り込んだりと、最高に華麗でとびきり「ヘン」な谷崎本の世界が繰り広げられるのです。 さあ、皆さんも、文豪谷崎プロデュース、曲者ぞろいの「ホン」たちのワンダーランドに、足を踏み入れてみませんか?
まだ「潤一郎少年」だった幼少の頃、谷崎は幸せでした。 谷崎は、たいへん裕福な家に生れました。「婆や」の付き添いがなければ小学校にも通えないという、「乳母日傘」のお坊ちゃんで、大切に可愛がられて育ちました。錦絵にも刷られたという、大好きだった美しい母の面影も、幸せな幼い時代を甘く彩っています。そして故郷・東京は、「古き良き江戸」の情緒をいまだとどめて、幼い潤一郎の感性を優しくつつみこみ豊かに育んだのです。 しかし、そんな甘く美しい日々も、長くは続きませんでした。懐かしい江戸の面影は近代の「東京」に侵食され、谷崎一家もやがて暗い貧窮のなかへと堕ちていきます。谷崎が故郷を拒み捨てたこと、にもかかわらず終生郷愁を捨てきれずにいたことの背景には、幼少期から青年時代へかけてのこうした暗い屈折があったのでしょうか。幼馴染みとの終生のつきあいも、暗い谷間の向うの、谷崎にとってもっとも美しく幸せだった幼い日々の思い出を繋ぎ留め、よび覚ますよすがとなっていたのかもしれません。 日本画の大家・鏑木清方が失われた東京の風俗を見事に活写した『幼少時代』挿絵原画、老いた谷崎がなお抱き続けた美しい母への憧憬を受け止めた鬼才・棟方志功の『瘋癲老人日記』挿絵原画、谷崎が故郷への屈折した郷愁を吐露したエッセイ「東京をおもふ」の自筆原稿、そして谷崎の幼少時代にまつわる貴重な写真等々・・・。さまざまな資料を通して、文豪谷崎の感性の母胎ともなった幼き日々とその郷愁とをクローズアップしていきます。
パソコン・ワープロ全盛の昨今、「字を書く」というのがしっくりこない、機械が作る「作字」の時代のようで、 作家のみなさんの世界でも、墨と筆はもちろん原稿用紙に万年筆を滑らせるなどというのも、今や珍しい風景となってしまったのではないでしょうか。 谷崎潤一郎も、もし今に生きていたなら、やはり「作字」の作家となっていたことでしょうが、幸か不幸か、彼は「肉筆」の時代の文豪でした。 作家谷崎のなりわいであり、人生そのものでもあった「文章を書く」ということが、とりもなおさず肉筆で文字を書くことであったわけで、結果、 私たちは今に遺された文豪の生の筆跡に接することができるのです。 作家の肉筆を味わう。少し前までは当たり前だったこのことが、今や、たいへん貴重な体験となっています。 特設展では、愛用の美麗な蒔絵硯箱や筆とともに、谷崎の遺した多種多様な肉筆をお見せします。 文壇デビュー頃の希少な書簡に遺る若々しく流麗な筆づかい、晩年のラブレターでは高血圧症の麻痺した手のたどたどしいカナクギ流、 編集者が読み間違えないようにと原稿用紙に書き付けられた小学生のような楷書体、さらに、文人の教養と風流を映し出す短冊・色紙の筆の品格等々・・・。 その生の筆跡から滲み出る、文豪谷崎の年輪と人となりを感じ取っていただければと思います。
大谷崎ともいわれた文豪谷崎潤一郎が世を去って、半世紀が経とうとしています。 一九六五年から二〇一五年。高度成長の真っ只中から、「一億総中流」の時代を経てバブルの狂乱へ。そして、その宴の後の空しさを満たしたのは、格差社会と少子超高齢化の閉塞状況の現在でしかなかったようです。この五十年という時の流れは、短くはなく遅くもなく、曲がりくねり、今も軋みを立てて進んでいます。
第五回 芦屋・打出の家